思い出の箱 昭和40年8月19日撮影
広島市電 1965年 被爆から20年後
400型電車 419号車 (1906〜1965) 広島駅前にて
この電車は元は100型 115番で当初は木造オープンデッキでした。
昭和2年(1927)に大阪市電から購入 .
昭和15年 鋼体化され、この形となり419番になりました。 .
昭和20年8月6日 この電車は電鉄前駅で原爆攻撃に会いました。
記録では大破したものの3ヵ月後の11月に修理復活したとのことです。
この写真の撮影日から3ヵ月後に廃車になりましたが、被爆後20年間
復興の町を走ったことになります。 . .
150型 158号車 広島駅前にて 1966年9月撮影
100型と違って当初からこの形態の鋼体車両でした。
1925年(T15)から1969年(S44)まで広島で運行されました。
十日町・横川間で被爆し大破するも、5ヶ月後には復旧し元気に走り出しました。
2番違いの156号車が現在当社で保存されています。
8月6日が近づくといつも報道される被爆電車のこと。650型が現役で
今なお活躍しているのは驚くべきことです。 多くの被爆電車が活躍して
いた昭和40年代初頭のの広島市電を見ていただいております。 .
2両連接車 宮島線直行 2500型と 後ろを走る410号車 広島駅前にて
この写真を撮ってH27年でちょうど50年前になります。
左端の広島信用金庫はそのまま残っていますが。中央の純喫茶パールなど
他の建物は最近すべて取り壊されたようですね。 Google Earthで見ました。
戦後生まれの 800型
800型 802号車 戦後、ナニワ工機で製造された車両で京都市電800型を
ベースにして1951年製造 1976年に廃車 25年間走りました。 .
広島市電のカラーリングも京都とほぼ同じで私も「京都の市電とそっくりや!」と言った
記憶があります。 このページの背景色と文字の色はそのイメージです。 .
昭和40年8月19日の原爆ドーム
ズームして見ました。
写真を撮った当時は原爆ドームはかろうじて補強されているものの
安っぽいフェンスで囲われ、風雨にさらされ崩壊の危機にさらされていました。
ドームの左奥に旧広島市民球場のナイター照明塔が見えます。
終戦後12年の1957年に球場が完成し、同時にナイター設備も設置されて
いました。 当時は甲子園球場よりも明るい設備として注目されていました。
ちなみに下の写真のビルは広島商工会議所ビルですが、この時は建設中で
記録では2カ月後の10月に竣工しています。 (ウィキペディア)
元安川と相生橋
いまでは人類の過ちを次に伝える負の遺産として世界遺産に認定されまし
たが、被爆後15年程は「見るとつらく悲しい、撤去してほしい」という市民感情と.
保守管理の財源も乏しかったこともあって自然崩壊の危機もありました。 .
しかし熱心な保存運動もあってその機運が急速に高まり、写真撮影時の翌年
1966年に市議会で永久保存の決定がなされました。 被災後21年目でした。
広島市電 1965年 END
ページ作成に当たりウィキペディアを参照しました。
車暦等も詳しく掲載されています。
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