思い出の箱 2012年11月20日 改訂
44年前 長崎の市内電車 〈 長崎電気軌道 〉
昭和43年(1968) 9月9日 撮影

各都市で市内電車が廃止された中、長崎電鉄は現在も活躍中です。
車両は300型 301号車
昭和28年製で、全10両の全数が現在も稼働中です。
※ 長崎電気軌道梶£n元では電鉄と呼称されています。

375号車 長崎駅前 建物はNHK
左橋のガスタンク2基 かつてこう言うタンクが全国の都市には
あったんです。 ガスの量で上に上がったり、下がったりしてました。
370型 全7両 昭和37年製 全数活躍中

375号車 長崎駅前
日本で最初の車体広告はこの長崎で1964年に始まりました。
この発想をした頭の柔らかさが、長く経営が続く原動力だったのでしょう。

370型 372号車 長崎駅前
後ろを走るオート三輪車が懐かしいです。
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370型 |
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300型 |
明治44年製造の160型

二重屋根の古典な車輛 160型、 撮影時で車齢57年
167号車 長崎駅前にて

同 167号車 長崎駅前
この二重屋根を見たときに、なんと古い車両が走っていると思い
ましたが、今にして思えば、明治なんてそんなに昔じゃないんだ。

この167号車は撮影後5年目の 1973年(S48)に解体されています。
ところが160型 8両のうち168号車が現役で頑張っています。
なんと車齢101歳。現在は年に3回ほどイベントのある時に実際に全線で
営業運転を行っていて、れっきとした現役電車として登録されています。.
元はと言えば西鉄の福岡市内線から昭和33年に移籍してきた電車です。
オランダ坂の風景 昭和43年9月 撮影

オランダ坂からグラバー邸を眺めました。
街の風景はずいぶん変わったことと思います。
長崎での思い出 。
昭和43年9月に九州の鉄道を撮影したいと思い南九州や豊肥線のスイッチバック、
久大線のD50など精力的に駆回りました。ただ長崎だけはその名に憧れて観光気分で
たずねました。グラバー邸や石畳の道を歩いて見たかったのです。 。
本木昌造という人の名をご存知でしょうか。 。
この人は<日本のグーテンベルク>とも言われる偉人なんですが。あまり知られていない
気がします。彼は幕末にオランダとの通訳をしていましたが、日本では書物の印刷は
すべて一ページごとの木版刷りだったのに対し西洋では文字ごとの金属活字を組む
非常に合理的な印刷方法であることに興味を抱き苦労を重ねて日本語の活字を作り
今日の大量印刷物の発行の礎を築いた人です。 。
私は小学生のころこの人の伝記を読んだことがあり、長崎へ行ったらこの人のゆかりの
あるところにも是非行きたいものとかねがね思っていました。 。
観光案内所のチラシか何かでその人のお墓があると知り行くことにしました。中国寺院
で有名な崇福寺の近くにあり歩いていくことにしました。ところが長崎は起伏の多い坂の
街でまっすぐに通った道がなく、ついに迷子状態となり、通りすがりの女性に道を尋ねると、
うまく説明ができないので私が近くまで連れて行ってあげると強引に歩き出しました。
女性は狭い路地のような道や坂道をまるでアミダクジのように右や左へとしかも早足で
また無言で私を引っ張っていきあっという間に目的地に届けてくれました。 、
お墓のあるお寺には保育所があり保母さんらしき女性に本木昌造の墓のあり場所を
たずねると、「私がそこまで案内します」と、また女性がついてきてくれました。
。
親切な女性と路地の坂道が私の忘れえぬ長崎の印象となりました。
また伝記でしか知らなかった人に会えたような気がして気分も爽快だったことは
言うまでもありません. 、
2005.10.23 記

昭和40年の長崎駅 印象的な三角屋根が懐かしい。
お断り カラー写真 3枚 は広瀬 均氏 より借用いたしました。
. また車歴等はウィキペディア 長崎電気軌道鰍フHPほかを参考にしました。
長崎市電 END
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2005.10.23 制作
2012.11.21 改訂