思い出の箱                                2012年10月13日 撮影

龍華操車場の記憶  2012年 そして今  

 あの煙が漂い、汽笛が鳴った龍華操車場がこんなに変わりました。







1984年 (昭和59年)に廃止されて28年目 意外と時間が経ちました。
かつての線路は道路になって痕跡を残しました。




西日本最大のマンションというふれこみで分譲中です。
河内地方 大阪市内 どこからでも見えます。



2012年10月12日撮影


7年前の写真


2005年3月 撮影





いつの間にか街路樹がよく育って、とても馴染んできました。

少し心に響くものが作ってあります。


見たところ普通の児童公園ですが。 ハッとしました。

よく見ると、 時計はかつての操車場時代のイメージが残り
すべり台は機関車のよう。 そして屋根は扇形庫そっくりに。
ターンテーブルの形に貯水槽が作ってありました。      
.




しかも時計はほぼ昔のままの位置にあって、ウルッときました。  「ありがとう!」

時計塔     <昭和42年頃の操車場風景>    ターンテーブルと扇形庫








近くの久宝寺寺内町からもニョッキリと。




八尾駅から八尾跨線橋を眺めました。
巨大なビルが建つと距離感がわからなくなります。 撮影地点から
後ろの巨大マンションまで約800mあります。




八尾跨線橋はある意味で龍華操車場の遺構です。
操車場の開設が1938年(S13)10月1日 この橋が同 12月となっています。
※ 開設年 ウィキペディア参照しました。



八尾駅を発車してまもなく猛煙を吐く蒸気機関車がこの橋をくぐるとき、
それを橋上で見ている子供たちは「ソレッ!」と反対側に走ります。  .
自動車の数もそれほど無くて、そんな遊びの出来た昭和30年代以前を
知る子供たちも既に60歳以上になりました。                .

私は鉄骨の取付部の隙間に降りて下をくぐって向こう側に出たことが
何度もあって結構スリルがありました。                  .




久宝寺駅前に蒸気機関車 C57の動輪を飾っていました。
(C57 101号機)



せめて飾るのは縁のないC57の動輪より9600型にして欲しかった。
とは、龍華で育った鉄道ファン「思い出の箱」の思いです。     .

もう一つの遺構
     これってなんだ?


   


この門型の鉄柱が切り取られた残りの土台でした。
操車場への入口としての信号機として活躍しました。
この写真は1992年(H4))に撮影されたもので、
鉄柱には信号灯の灯器が付けられていました。 
既に操車場は廃止され、広大な空地があった頃の写真です。

残念ながらこの土台はいつの頃かに撤去され
もう見ることも叶いません。 
 2020.10.31
お願い
 この写真は下記のブログのご好意で転載しています。
「懐かしい駅の風景〜線路配線図とともに」  


           龍華操車場の跡  2012年   END

操車場の記録写真が満載   目次へ

       メール箱 お待ちしています。    思い出の箱 目次へ  


アクセスカウンター

2012.10.13      制作
2012.11. 5   画像追加
2018.10.19   改訂版