思い出の箱 昭和43年3月16日 撮影
北海道 石北本線 常紋信号場にて
じょうもん H 20.4.11 改定版
石北本線(北海道)は石狩の旭川と北見の網走を結ぶ路線です。
オホーツクに近く、3月とはいえこの日も氷点下でした。 .
多数の貨車が行き交う信号場内
貨物列車の一番奥、煙がモヤーッと上がっているところに常紋トンネルの入り口が見えています。
信号場建屋とD51機関車
場内で退避する9600型機関車とと行き交うD51
ディーゼル急行の場内通過。タブレットが差し出されています。
タブレットの中身は金属製の通票。この装置にを差し込んで隣の駅に信号を発信します
右側の箱に「金華」 こちらは「生田原」の各駅名が表示してあります。
右の装置の上には針金の渦巻き状のもの、こちらにはベルがつけてあって
それぞれ信号がくると、ブンブン、チンチンと音が鳴ります
特急 おおとり 釧路・網走 ←→ 函館
特急 おおとり 一枚上の写真と同列車
つづいて 網走方面から信号場に登ってきた貨物列車の連続写真です。
列車の速度と追い風が一緒で煙がまっすぐ登っています。
信号場内に到着する96+D51貨物列車
このあとバック運転しプラットホーム手前に入線します
このあと私はトンネルの向こうに出て遠軽方面からの列車を撮影しました。
最後尾の煙は補機の9600機関車
遠軽方面から網走方面へ登ってくる本務機D51+後補機96の貨物列車
この地点このシーンはあまたの雑誌や写真集で紹介されていて
是非、自分も撮りたいと願ってやってきた常紋信号場でした。
恐怖の常紋トンネルの一人越え記 .
職員さんに頼めばトンネル内の電灯をつけてもらえると人伝に聞いていましたので、お願い したところ、「本日はダイヤどおりの運行なので気を付けて抜けるように」と言葉を添えて点灯し ていただいた上に、お茶まで出していただきました。 |
この常紋トンネルは難工事で数多くの人柱が埋まっているという言伝えがあると聞いていました。 |
そんな話を背にしてたった一人でトンネルを越えました。いま話せば武勇伝ですが、実際はその 状況を話すのも恥ずかしくなるぐらいヘッピリ腰で怖くて怖くて逃げ出す様に抜けたのでした。 |
レンガ積みのトンネルで壁は煙ですすけて真っ黒、電灯は点いてはいますがポツポツとあるだ けで薄暗く、単線なので天井は高いが狭い感じです。普段なら単なる漏水が冬なのでそれが 凍って壁にびっしり張付いていて、それを落としたのやら天井のツララの落ちたのだとかで軌道上 それらが散らばっています。トンネルは大きくカーブしていて何メートルか進むと入口の光りが スーッと消えて前も後も何にも見えなくなり、とたんに恐怖感が襲ってきます。ガチャガチャと石を 鳴らしながら進みますが、その音が壁に反響してもう一人誰か付いてくる様な音に聞こえます。 確かめるように立ち止まると、無音の世界。怖くなって小走りになると枕木や石にけつまずく始末 です。はるか前方に明かりが見えたときのうれしさは言葉になりません。 1914年(大正3年)に完成したこのトンネルの全長は507m、いったい何分で越えたのか記憶に 無く、とにかく怖かったです。今思い出しても怖かったです。 |
注 人柱伝説について
1968年の十勝沖地震の際、崩れたトンネル内壁の修復作業中に遺骨が発見された事のほか その後の発掘、多くの証言から、この言伝えが事実である事が分かっています。 この工事、過酷な労働と栄養不足で病死したり、体力の弱い労働者や逃亡者へのリンチなど の死者が100名以上あって山中に放置や埋葬、あげくはトンネル内に埋められたりしました。 ここ常紋に限らず、北の大地北海道の開拓の歴史の中で、鉄路の敷設、道路の建設などに全国 からタコとよばれる労働者が自主的にせよ騙されたにせよ集められました。 こういった土木従事者の犠牲者はいったい何に対する犠牲者なのか、この事実をどう受け止め るか、そして私たちの生きる現在にどう繋がって行くのか、ネット上のホームページには真剣に 考察しているサイトがありますのでぜひ参照してください。(常紋トンネルで検索) 「思いでの箱」は鉄道ファンの視点で常紋信号場を紹介しましたが、多少の後ろめたさを感じながら 掲載しています。 合掌 |
雪の常紋信号場 終わり