北丹鉄道・夢の跡 | R 3.. 2. 15 改訂 昭和42年10月10日 撮影 |
明治25年 | 宮津 福知山間の鉄道建設運動が起こる | |
明治27年 | 工事測量開始 | |
まもなく 中国大陸 清国との関係が悪化し測量中断 | ||
日清戦争始まる | ||
このことは国にとって商港の宮津よりも舞鶴が軍港として 注目されることになります |
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明治32年 | 大阪 〜 福知山間 鉄道開通 | |
明治37年 | 福知山 〜 舞鶴間 鉄道開通 (大阪舞鶴間の軍用路線完成) | |
日露戦争始まる 翌年に日本勝利 | ||
宮津は見放され孤島化しつつあるとして、一層の鉄道誘致 に懸命となります |
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明治41年 | 宮津町有志が鉄道建設を請願し国会可決。 しかし | |
資金難で計画が頓挫 (理由は不明) | ||
大正8年 | 再度の申請の末、次の条件で建設許可が認可された | |
工期 1期 福知山 〜 河守 この事業は北丹軽便鉄道会社として着工 2期 河守 〜 宮津 宮津鉄道会社として1期以後着工予定 |
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大正12年 | 9月22日 1期工事完成 営業開始 続いて2期工事が予定されていたが、トンネル工事資金他 恐慌による資金不足もあり延期された |
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大正13年 | 西舞鶴 〜 宮津に鉄道完成 宮津は孤島状態から脱出し、2期工事の意欲が無くなる。 |
昭和23年 | 宮津鉄道建設促進期成同盟が発足し建設運動が再開 | |
昭和28年 | 宮津 〜河守間の国鉄の計画路線に策定 | |
昭和41年 | 宮守線計画が認可され 鉄道建設公団により着手されます | |
このとき 北丹鉄道は |
北丹鉄道の終末期はこのレポートにあるように、軌道は荒れ 乗客は少なく慢性赤字を抱え、交通機関としての役割はほとんど 果たせなかったのですが、国に路線を買い上げてもらうという 望みだけで存続していたようなものでした。 しかし決定した路線はほとんどが別線ルートでした |
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昭和49年 | 昭和46年 北丹鉄道の休業に続いてこの年ついに廃止 | |
昭和63年 | 北近畿タンゴ鉄道 宮福線として宮津 福知山間の鉄道開通 | |
平成27年 | 4月1日 北近畿タンゴ鉄道は鉄道の施設管理会社に そして鉄道の運用は京都丹後鉄道とし上下分離方式へ |
現在の福知山駅前の画像は福知山市内在住の読者による提供です。 H30.2.4 |
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少し薄い紙の硬券 ミシン目のある切り離し式の切符です。 |
今にして思えば、経営難の私鉄が 国鉄線区ゆきの硬券を発行していたのは 腑に落ちません。。一体いくつの駅行きが 発行されていたのでしょうか。 . ちなみに切符番号は0085です。. |
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近鉄養老線から移籍してきた木造貨車。 大正12年製 左右に残るバッファーの跡と, 側面に残る近鉄のマーク。 |
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福知山鉄道管理局舎をバックに国鉄急行列車と並んで。 中央の車両がハニ11 元は大正12年製の南海電鉄の電車でした。 昭和34年に譲渡を受け客車に改造しました。 ラッシュ時はこのように ディーゼル車に牽引される形で運用されました。 . . |
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福知山西 福知山にある福知山鉄道館「ポ |
駅の掲示板 ッポランド」に掲げられていたものです。 |
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前掲の福知山駅の画像と同じく読者からの提供写真です。 大変有難うございました。 |
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