思い出の箱 | 2003年 5月 3日 制作 | |
2016年 9月28日 改訂A |
河内堅上駅 西方にて 和歌山行き普通列車 |
亀の瀬地すべりについて | 15年 5月27日 制作 28年 9月28日 改訂 |
明治23年 | 建設中の大阪鉄道(現JR関西線)の亀の瀬トンネルの地上で地すべりが 発生し 建設をあきらめ、違う場所から再掘削を始める。 |
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明治25年2月2日 | トンネル完成 (単線439m) これで大阪(湊町)〜奈良が開通する。 | |
明治36年 | 大和川の川床が隆起を始める。 (明治33年には関西鉄道になる) | |
大正13年 | 別線で複線トンネル完成(703m) 但し大阪方向下りは西口から246mは明治25年のトンネルを流用した。 2009年に発見されたトンネルの遺構はこの明治25年のトンネルです |
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昭和6年 11月27日 | トンネルの地上部 峠地区で2条の亀裂発見。 | |
〃 11月29日 | トンネル西口で亀裂発見。 | |
昭和7年 1月22日 | 下り線 運休。 | |
〃 2月 1日 | 上り線 運休。 徒歩連絡の開始 | |
〃 2月20日 | 日を追って大和川が埋まり、崖が数ヶ所にわたり崩壊。 仮駅として亀の瀬西口 亀の瀬東口が開業する。 |
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〃 7月1日 | 土石の除去作業が行われる。 (多くの朝鮮人労働者が従事する) 32haが滑動、 水平53m移動 川床36m隆起 ダム状態となり 上流 藤井地区に浸水箇所が発生。 南岸の新線移設工事が施工開始。(7月1日) |
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〃 12月31日 | 単線にて切り替え工事完成。 | |
昭和10年 | 複線が復旧 | |
昭和37年 | 地すべり対策工事が建設省の直轄事業となる。 | |
昭和42年 2月〜7月 |
鉄道に影響は無かったが、再び地すべりが発生 水平26m移動 川床1mが隆起、対岸の国道24号線が1m隆起。 (現在通行しても隆起箇所が分かります) |
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昭和60年〜現在 | 対策事業によりすべりの量は殆ど無くなり安定化する。 定点観測や設備の維持管理のためこれからも事業は続きます。 |
以上 現場の掲示板 大和川河川事務所のパンフ、柏原市史 聞き取り 見学会での配布資料
ウィキペディア等を参考に作成しました。 2016//9/28 改訂
現在、 対策事業推進中で列車から一部を見ることが出来ますが、 かなり広大な
地域に防護の工事が行われています。 その技術は世界でもトップレベルだとか。
これほどまでに工事が行われているのは次の点で重要なだからです。
@ この地点は奈良盆地の水を集めた大和川が奈良から大阪にむかって .
山を穿って流れ出す場所で、川床の隆起や大量の土砂が川を埋めた場合
奈良側に甚大な浸水被害が発生する。
A この地点がダム状態になり決壊した場合、大阪側に相当の被害が想定される。
現場にある工事事務所のそばに地すべり資料館があります。
地すべりのメカニズムや地層や地質の資料。 対策事業の詳しい説明が
模型やイラストで説明されているほか、 当時の写真や旧トンネルから出てきた
レール等も保存されています。
昭和7年7月 亀の瀬トンネル西口の被害 .
左側の奈良方面行きの入口の変形とすでに撤去されている
軌道跡のゆがみが不気味です。
左側が大正13年、右側が明治25年の入口です。
昭和7年8月 河床の掘削と法面の切り取り (奈良方向に撮影)
トロッコの先に上がる煙は機関車か、はたまた建設機械の煙か?
以上2枚の写真資料は近畿地方整備局大和川河川事務所の亀の瀬資料館の
許可をいただき転載いたしました
柏原市史の第2巻に興味深い地図が掲載されていました。(柏原市立図書館蔵)
臨時駅 亀の瀬西口駅 と 亀の瀬東口駅
( 駅名部分と川筋を一部加工しました)
昭和 6年11月27日に始まった地滑りにより、あくる7年1月22日には下りが
2月1日には上りが運休になり徒歩による峠越えを余儀なくされました。
昭和7年12月31日単線ながら線路の切替工事が完了するまでの10ヶ月間
臨時駅を設置していたことが分かります。 .
大阪側の落ち着きと 奈良側の恐怖感
奈良県王寺町史にもかなり詳しくこのときの様子が記載されています。
柏原市史と概要は同じなので細かくは紹介いたしませんが、ただこの災害について
の捕らえ方が大阪側と奈良側、つまり下流と上流とでかなりの違いがあることが .
両方の市史 町史を読んでみて分かりました。 .
つまりこの災害の2次的被害として大和川がせき止められジワジワと王寺付近
まで水面が上昇し水害という形に変わってきたことに対する恐怖が奈良側の人々
にあり事態の推移にかなり深刻な様子が王寺町史からよく読み取れました。 .
かたや 柏原側は下流域のため当然といえば当然ですがその深刻さは市史からは
読み取れませんでした。 とくに災害史を綴っている訳でなく編集者の思うままにある
いは、ページ数の制限などにより扱い方は変わるでしょうが、私はそれだけで無い
捕らえ方の違いを感じました。、両方読んでみてよかったと思っております。 .
なおこの災害に先立つ29年前、明治23年に大阪〜奈良間の鉄道開通にあたり、
亀の瀬トンネルが完工検査で不合格となり、開通の日延べがあり、乗客はトンネル内を
徒歩で通行したことなどが 当時の朝日新聞からの抜粋を交えて記載されているほか
桜井線、和歌山線、ほか開通にまつわる資料等もあり興味ある方は一読を薦めます。
珍しい構造の鉄橋
河内堅上寄りの鉄橋はトラス橋の上に交叉してプレートガーター橋が乗っかる
という珍しい構造をしています。 .
川を浅い角度で横切る関係で当時の橋梁技術としては、長いスパンとなり、とくに
大和川流域でここが一番川幅の狭い地点であることから増水時の急流を考える
と橋脚は立てられない。しかも工期は急を要する。これらの条件が制約となり .
このような構造となったのではないでしょうか。 .
2009年12月 驚きの報道 トンネル発見 !
崩壊し埋没したと考えられていた旧亀の瀬トンネルの一部が完全な形のまま
残存していることが発見されたことが2009年12月の新聞で発表がありました。 .
120年前の煉瓦造りのトンネルは貴重な遺構であるとして保存されることになりました。
2009年12月10日 産経新聞から
2016年9月24日 当ページがトンネルの中に入りました。
大和川市民ネットワークの主催
≪地下に広がる大規模空間 亀の瀬地すべりとの闘いがここにある≫
旧トンネルや排水トンネル 地滑りの仕組み等の見学会に行ってきました。
路盤、バラス 線路や枕木はトンネルを放棄した時に撤収されたと説明されました。
見たときの印象ではあまりに綺麗なのでやや半信半疑。
発見されたトンネルの最奥部はこのようにふさがれていました。
発見時のままの姿とのこと。 床面をここまで綺麗にしておいたのか。
明治期のトンネルと工事中の排水路の交差部。
この排水路の掘削中に旧トンネルにぶち当りました。
排水路の奥に大正期のトンネルの残存も確認されているが、排水路自体が
向こうに下り傾斜で天井部に当たるため、工事の進捗に支障があり保存等は
しないで作業が進められました。 明治期の遺構は文化財としての価値を認め
安全性を確認のうえ保存し、広く公開されることとなりました。 .
ほぼ同じ面での交差と言う偶然のお陰で保存公開されている幸運と関係者の
努力に感謝しながら見学しました。 。
H25年2月2日 柏原市指定文化財に指定さています。
排水路との交差部の模式図
地中のイメージ
国土交通省の地滑り対策工事
@ | 地滑り地帯上部を中心に土塊を取り除く |
A | 最大径 6.5m 最長96mの鋼管杭やコンクリート杭を総数700本以上を打ち込み 土塊の動きを抑制する。 |
B | 集水井 直径3.5m を多数掘削し、地下水を集める。 総数54基 |
B | 地下に排水路を網の目の様に設置し延長2.7km。 それらに水を集める 鋼管(集水ボーリング)を3900本 それらは延長147kmにも及びます。 |
2015年9月の様子
2015年9月1日撮影 鉄橋が赤から白に塗り替えられてます。
2015年9月1日撮影
工事現場へは新しい道路橋が完成し、旧橋は撤去されています。
2016年9月24日撮影
亀の瀬の大和路線 END
柏原市図書館の市史に掲載の亀の瀬仮駅の地図について、地図の原本は
大日本帝国陸地測量部 明治41年測量 昭和5年修正測量 昭和7年要部修正
昭和7年10月30日発行 1/50,000 まさしく新線移転の工事の最中でした。
国土交通省 大和川河川事務所のホームページを紹介します。 | ![]() |
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JR八尾駅の橋上駅舎完成。 ページ後半は 八尾駅付近の明治時代の古地図から、 JR大和路線の歴史を探ります。 |
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JR高井田駅〜河内堅上 間を走る C51型蒸気機関車 | ![]() |