思い出の箱    2010年9月13日  制作
     2024年2月11日  改訂
  フォース鉄道橋 と テイ鉄橋の崩壊
世界遺産  2015年  2010年 9月7日  撮影


英国が誇る鉄道遺産   スコットランドのフォース鉄道橋
134年前の1890年完成 (明治23年)

いつの頃から知っていたのだろう? そしていつかは見たいと思って
いたフォース橋。 目の前にそれはありました。 夢がひとつ叶いました。









スコットランドの首都 エジンバラの西北西 約10Km。 フォース湾に架かっています。
写真の奥に北海が広がり、その先はデンマーク スウェーデン。       .

この日は雨、それも冷たいひどい雨風。 スコットランドは天気が変わりやすく、これも
いい体験だとあきらめましたが、やっぱり恨めしい。 カメラのレンズも濡れてしまいました。
MAP

鉄橋の位置を確認します。





この日は緯度が高いせいで気温は15℃ぐらい。 この時日本はまだ30℃以上でした。
左の橋は1964年建設のフォース道路橋 右が1890年建設の鉄道橋です。

この写真撮影7年後に左の道路橋のさらに左にもう一本道路橋が架けられました。
 「クィーンズフェリー・クロッシング」と呼ばれる斜張橋です




主塔の高さ 137m  主塔と主塔の間 510m  全長2500m  とにかく大きい。

別名  鋼の恐竜 (はがねの恐竜)と言われてます........ 納得!




フォース湾 対岸のノースクイーンズフェリー地区を望遠レンズで。
North Queensferry





こちらは サウスクイーンズフェリー地区です。
South Queensferry




フォース橋の南側はとても美しい街でした。 

「サウスクィーンズフェリー」地区の名のように
かつては対岸を行き交う渡し舟の船着場でした。









「カンチレバートラス構造」と呼ばれるものです。 特に珍しい構造と言うわけではありません。

      
渡辺嘉一博士

この橋の構造を説明するのに必ず出てくる写真です。

 
建設当時に世間に納得いく説明のために撮影された
もので、面白いのは
中央に乗っている人は日本人
なんです。

長野県出身の
渡辺嘉一さんで東大(工部大学校)を
卒業し英国留学されていたときに、研修目的でこの
工事に参加され、写真のモデルになったと言うことです。

 渡辺さんはその後、石川島重工、京阪電鉄 京王電鉄、
関西ガス他の社長などを歴任し日本の造船や建築界に
大きな足跡を残されています。

大阪フィルの故 朝比奈隆さんの父でもありました。          
                      
 ウィキペディアから 
写真資料は、あまりにポピュラーなので、ある本から無断借用しています。


望遠レンズで覗きました。  



ディーゼル機関車の旅客列車が通過します。 おそらくロンドン行き長距離列車でしょう。





これはディーゼルカーのローカル列車。 3両がワーレントラス橋部分に乗っています。
このように建設後120年経った現在も、堂々と現役で頑張っています。

メモ  完成した1890年は日本では明治23年に当たります。
この年に明治憲法が発布され第一回帝国議会が開かれました。。
その前年には東海道本線がやっと東京・神戸間全通しています。





この白いものは?

これは錆び落としやペインティング作業のための覆いのようです。。

現役続行には、それなりの保守が大変です。鉄橋の保守のため白い覆いや足場が
常に存在します。 この作業は100年以上続いています。 そしてこれからも。    
.

イギリスのことわざ
"like painting the Forth Bridge"

終わりのない仕事を表すのに「フォース橋のペンキを塗るようなもの」と言います。
 




スコットランド北辺からエディンバラ経由ロンドンへの重要な幹線なので
 列車は10分置きぐらいに通過します。





この部分だけでもすごい橋。 高さ 約45m

見上げながら、日本でつい先ごろ引退した山陰本線の餘部(あまるべ)鉄橋を
ふと思い出しました。 柱など構造は違いますけどもよく似た高さです。
     .


餘部鉄橋は明治45年の完成で高さは41m  フォース橋は48m(いずれも水面上)

旧余部鉄橋はこの写真の撮影の2か月前の2010年7月16日に運用を終え
新しくコンクリート橋に切替えられました。





イギリスなんかは地震の事なんか考えないんでしょう。  だいいち地震が無いらしい。




私はこのアングルからのフォース橋を見たかったのです。
この姿に憧れていたんです。



橋脚は左右に少し開きガッシリと踏ん張っています。 「ホルバインの踏ん張り」
呼ばれて,この橋の特徴でもあります。 画家ホルバインの描く人物像は常に踏ん張って
いたからだとか。    ※ ページ最後に彼の作品を紹介しています。     
     .




石の橋脚はまるで古城の門のよう。 複線分のトンネルです。

この国を旅して、石の文化というのか建築物を見て石造りには相当の自信が
あって迷うことなく築造している職人の誇りのようなものを感じてしまいました。



橋の部材は当時の新素材 《鋼 はがね
 鉄は炭素の含有量により鋳鉄 錬鉄 鋼鉄と性質が変化します。 当時は鋳鉄と錬鉄
を使用する状況で使い分けていた頃で、鋼は強靭だが錆びやすく加工しにくいとして、
大きな構造物には使用されたことがなく、その性質が未知の新素材だった訳で、むしろ
錬鉄の方が粘り強いとされていました。たとえば1年前に完成したパリのエッフェル塔すら
錬鉄を使用していました。

 設計者はその強靭さを実験で証明しながら政府にその使用基準の緩和を認めさせて、
やっと鋼鉄の使用許可を取ったほどでした。仮に錬鉄でこの橋を作るとしたら重量が倍と
なり、物理的に作ることが出来ないといわれています。

 半導体や炭素繊維、光ファイバーほか、科学技術の発展と共に私たちの生活、社会が
世界が変化してきたことを実感していますが、当時も同じことで、鉄、石炭の豊富な産業
革命の発祥の地「世界に君臨する英国」ならではの大事業だったといえます。



フォース鉄道橋の関連数値
完成 1890年3月 明治22年 
橋の全長 2530m  資料にばらつきがあり約2500mとします。
支柱間のスパン 510m
橋桁の高さ (水面から) 48m
主塔の高さ    〃 137m    


建設批判

建設当時にはあまりの馬鹿でかさに 畑違いの芸術家は「この世で一番醜悪な鉄の怪物」などと
批判しましたし、技術者の間でも過剰設計だ、資金の無駄使いだとの指摘も大いにありました。 
車両重量が桁違いにに重くなった現在でもなお使用できるのは、この充分すぎる強度のおかげで
もあるんですが、それまでしても建設に踏み切ったにはそれなりの事情があったのです。    .

その事情とは、それ以前の19年前の1878年に完成するも、わずか2年足らずで
落橋するという
テイ鉄橋の悲劇と大いに関係しています。             .



テイ鉄橋へと向かいます。

フォース橋から北東へ約60Km 列車で向かいます



フォース橋南詰め  Dalmany駅(ダルメニー)

余談ですが                                                .
橋の下で偶然この駅の存在を知り、道を尋ねると石の橋脚のすぐそばから階段が
あり、登ると地図にも載っていない小径が現れて十数分で駅にたどり着きました。
村人のみ知るような近道で秘密めいていて、うれしくなりました。
          .





フォース鉄橋を車窓から眺めます。



鉄橋から北へ2つ目 inverkeithing駅 (インバーカイジング)にて




ディーゼル急行列車、   これでテイ鉄橋のあるダンディーへ向かいます。
車両は クラス170型  最速160km/h  1998年以後製造 アルミ合金車





長距離列車 IC125 
ロンドンとスコットランドを最速200km/hで飛ばすディーゼル機関車の
列車です。 前引き後押しのプッシュプルでぶっ飛ばします。
       .




全国を走る代表的ローカル列車  クラス158型

国鉄民営化(1994年以後)に先立ち、機関車牽引の旅客車両を
ディーゼル列車に置き換えが始まった頃の車両です。





切符を買っても改札口には駅員が立ちません。
大きな駅は別にしてみんなそうですが、車内検札はきっちりあります。



ちょっと寄り道

ゴルフの聖地。 セントアンドリューズはテイ橋の近くです。



最寄り駅は ルカーズ駅  (Leuchars)  
 ここも大荒れでした。


テイ鉄橋の少し手前にあるセントアンドリューズへはこの駅で降り、
バスで15分ほどの距離。 世界有数の名プレーヤーがやってくる駅は
驚くほど田舎の駅でした。        .                
 .

ウィリアム王子とケイトさんはここの大学出身。この駅を利用して
いたと思います。                       
    . .



ゴルフ競技の世界的総本山 R
& Aゴルフクラブ と18番ホール
The Open(全英オープン)で知られたクラブハウスです。




ニクラウス ワトソン パーマー そして青木 中嶋など
世界中の名プレーヤが渡った石の橋。 見ただけで身震いしました。

身震いしたのは気温の低さと、この雨混じりの風でもありますが
それでもこうしてラウンドする人もちらほら見えました。


現在の2代目 テイ鉄橋を渡ります。

北海から深く入り込んだテイ湾を横切るように架かっています。



テイ橋の中央部を走り抜けます。




テイ橋は途中から大きくカーブしてその先がDundee ( ダンディー) の街





1887年(明治19年)建設でフォース橋よりも古い二代目テイ橋。今なお現役です。


鉄橋を渡ってまもなく ダンディー駅へ到着します。

嵐の夜の初代テイ橋の落橋

事故当時の写真 事故を伝える当時の絵画
事故写真と絵画は多方面に知られたもので、web上から引用いたしました。

1878年(明治10年)7年間の難工事の末に完成した鉄橋は英国の誉れであり
地元ダンディー市の喜びは設計者バウチを名誉市民の資格を与えました。

開通して1年7ヶ月後の
1879年12月28日 雨混じりの強風が吹いている中を
午後7時過ぎ、
機関車と客車5両と貨車1両の列車は南から定刻どうり鉄橋を 
通過していました。 ところが中央付近で忽然とその姿が消えました。   
 . 
見張りの信号員が見たのは数百メートルに渡って崩れ落ちた鉄橋と海に  
 .
落ちた列車でした。                                 
 . 

翌朝現場に多くの船が出て遺体の引き揚げと現場検証が行われました。 発見
された遺体は75名だったということです。                     
 .

単なるうわさですが、あの「資本論」「共産党宣言」のカールマルクスがこの列車
乗る予定が、体調が悪くてロンドンに残っていたという伝説があるらしいです。 

列車が落ちて鉄橋が崩れたのか? 鉄橋の崩壊が先なのか?

事故当時 列車の転覆が原因かと疑われましたが、横風を受けた橋の倒壊に
より列車が落ちたものと断定されました。
                      .



130年前の橋脚の基礎部分は現在も見ることが出来ます。











当時の写真のように柱は円筒パイプとなっているのがよくわかります。
この日は強風と雨でダンディー駅でも吹き降りによる浸水騒ぎがあったり
して
事故当日が再現されたかのような光景に接し、これを見たとき思わず
身震いしました。                                  .




テイ湾は干満の差が大きくて、車窓からも潮の流れが確認できました。
煉瓦の基礎にその波紋が見え、まるで河のようでした。




地位も名誉も失った設計者  トーマス・バウチ

横風に対する耐性を深く考えず橋脚には、上からの重力に耐えれば充分として、使い慣れた
鋳鉄のパイプを採用し、さらにその品質は下請け任せの劣悪なものも混ざっていたようで、 
設計のミスと品質管理の落ち度が指摘され、橋の完成時にはダンディ市の名誉市民となり、
時のビクトリア女王からは「サー」の称号を授かるのなどした設計者は、失意のうちに地位も
名誉も失ったのです。 そして事故調査委員会にレポート提出後7ヶ月でこの世を去りました。


テイ橋の落橋事故により政府の安全基準がきびしく変化し、次に架ける長大橋は
二度と失敗が許されず、特に念入りな強度計算と材質の管理が求められた結果

,念には念を入れた あのような怪物的なフォース橋を生み出したのでした。  
.


テイ橋からの帰路 もう一度フォース橋を渡ります。







雨は止み、西の空が晴れていました。

街をしっかり眺めると。



このページの数々の写真は、この街を歩きながら
撮ったものです。  こんな素敵な街の片隅からフォース橋を
眺めることができたのは本当に幸せの一語に尽きます。 
 .


エディンバラ城からフォース橋が遠望できます



拡大すると 遠方にフォース橋の一部が見えます。





     参考   ホルバインの踏ん張り




 国王ヘンリー8世の肖像画

  ハンス・ホルバイン画
          (1497〜1543)

 ドイツの画家で一時期 イギリス国王の宮廷画家となり多くの肖像画を残しています。
 この作品もその一つ。

この足はまさしくフォース橋ですね。
END
      
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こちらも「思い出の箱」のイギリスレポートです。
                          あわせてご覧ください。
人気観光路線   セトル・カーライル鉄道
SL保存鉄道  キースリー&ワース・バレー鉄道
SL保存鉄道   ノースヨークシャー・ムーアズ鉄道
 ナショナルレール  イーストコースト線ほか

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このページを作成に当たっては下記を参考にしました。
「長大橋への挑戦」  NHK出版  1993年刊行本

また多くのWEBページ ウィキペディア等も参照いたしました。


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